戒めみたいなつもりで

そんなに気負うようなことじゃないかもしれないけど。

自分が日記を書くということ自体、信じがたい。
なにが楽しくて日記など書くのか。
書くことは、私を救うのかはたまた、逆効果なのか。
そして、それをオンラインで公開することは。
単なる自己顕示欲の表れでしかないのだろうか。
オンラインで現実と同様の人格を作ってしまうことは、情報の安全を捨ててまで意義のあることなのだろうか。
というより、この現実にもう情報の安全などないのかもしれないけれど。
何を求めて、オンライン日記など。
賛同者からのレスポンスか。
いや、あるいは直接的評価か。

ネット上に現実を持ち込むことを、こんなにも恐れているのは私だけかもしれない。そんなに大問題ではなかったりして。
では、とりあえず、やってみるか。
とりあえず、私を公開してみるか。いやいや、そんな簡単な構えじゃいけない。
後に消去が効くことはないと思っている。覚悟が必要だ。

誰が見ているんだ。
誰が、何のためにネットをするのか。
画面上にアップされる一文一文に間違いはないかと目を凝らし
おびえた手でキーボードを打つといった行為は
果たして、いや、まったく意味のないことではないか。

それ以前に、
公開された時点で、もうそれは日記ではないのかもしれない
思うに、自分のためではないのなら、その心構えからして日記ではない
日々の嘆きでさえ、一時の憎しみを開放するだけの悪態でさえ
もはや、表現だ。散文詩のようなものだ。

小学校の頃に日記を提出させられるのをあれだけ拒んだ私が
ここで自ら進んで提出せんとしている。バカげた話だ。
中高部活での文章表現で力と忍耐力の限界を感じたじゃないか。
締め切りを破り、原稿を落とし、多くの人に迷惑をかけたあの頃の反省も、忘れたじゃすまされないだろう。

しかし、ひょっとしたら、波に乗れたら、関を切ったように書けるようになるかもしれない。かすかな期待。
いつもこれに騙されているけれど。
加えて、生活の足跡を残したいという、マーキングの本能みたいなのがやはり・・・みもフタもないけど、真実だし。
だれかに見られていればできるもしれないという、浅はかな思いつき。
(行動を始めるために、何かしら条件をつけなければならない。というのも尋常ならざる私の怠惰の所以だけれど。)
ああなんて傲慢なんだ。

じゃあ、自分のために日記かけよ。と。
誰かに見せる前に、自分で書けるようになっとけよ。と。

それはできないのだ。と思う。
日記を書くことの意味。自分に見せるだけなら、と思えば、手抜きもする。
それだ、そのためだ。
日ごろ、私の書くメールが長くなってしまうのは、心掛けがちがうためだ。
完成した文章というのがかけるかどうか、わからない。しかし
人に見てもらえること、それが、私のものを書く原動力になっているのは紛れもない事実。
それは、自分を追い込むことであっても。
だって何より、伝わる文章を書こうという努力につながる。
そうでもしなければ、私は何も生み出さない。
このままでは、私の得たものは、何の形も残らずに、ただ曖昧模糊に楽しかったなーっつ−記憶として、消化、ゆくゆくは排泄されちゃうだけだ。
それではただの、経験の消費、浪費ではないか!
日記を書こう。いや、散文か、オンラインの。