『鵺』

(3日に世田谷パブリックシアターにて行われた宮沢章夫脚本・演出『鵺』のリーディング公演をみてきた感想である。内容についての説明は省く。そこまで言及する余力がないからだ。念願の宮沢舞台である。内容を感情的に受け止めすぎたため、chech語多数。自己満の怪文故に『読まぬ』『読み飛ばす』という戦略的回避術もあることをお忘れなく。)


<以下、感想>


「あの時代の新宿」を知っているか?

私は知らない。
そういえば雑誌「東京人」で去年の秋ごろ新宿特集をやっていた。私たちはそうやって、雑誌や書籍、僅かに残る映像、親の思い出話から辛うじてその時代を想像はする。思いをはせる。憧れる。
しかし、私たちはその時代を「体験していない」のである。
これがその時代を生きたオヤジたちとの決定的差だ。


「あの時代の新宿」・・・つまり、60−70年代のアングラ演劇であったり、前衛であったり、そういう空気が、もはやその時代に生きていなかった者たちにとっては伝説だ。
それは、―劇中の台詞にもあったが―私たちが戦争をおじいさん、おばあさんや語りべからしか知ることができないのと同じ。

そう思うと何だか寂しかった。
別に、私が同情してやることもないけれど。
オヤジたちの青春は、そうしてひっそり古びていく。


(妄想→)
ときどきオヤジは部屋で一人、引き出しからごそごそと小さな箱を取り出してくる。
まわりに誰もいないのを慎重に確かめると、箱を開けてそっと「旧い」記憶を取り出し、眺めてみる。
光に透かしたりして、いろんな角度から眺めてみる。
少し懐かしく、少し途方に暮れながら。ため息をつく。
この感覚は、ああ、あれだ、呟いてみる「ノスタルジー」。
いざ口に出すと、気恥ずかしさがまして来る。「いやいや、いい年してそんな・・・」あわてて首をふり、記憶をもとの箱にしまう。引き出しの奥に封印する。


その一連の動作を誰かにみられてしまったときの、気まずい感じとどうしようもない恥ずかしさに、私は同情を禁じえない。




<以下、今回の舞台の意味を勝手に解釈すると>


「旧い」記憶の積み重ねの上に構成されている人間が、「新しさ」にコミットしていくにはどうすればよいのか・・・かつて「あの時代の新宿」を生きたオヤジたちはその方法を模索し、彷徨い、途方にくれる。
「旧い」記憶を自分から切り離せば、「新しさ」を手に入れられるのだろうか?
しかし、一方で自分の今の存在を裏付けているものは「旧い」記憶である。
「旧い」記憶を否定してしまったら、今の自分の存在はどうなる?


青春時代で止まってしまった部分と、成長せざるをえなかった部分の葛藤。オヤジの自己矛盾を目の当たりにして、私は思った。この年になっても、まだ、自己肯定できないのか!!

ああ、見てられない。
でも、私は、この情けなさとかっこわるさに向き合ってしまった。
オヤジが叫んでいる。大人になってしまった青年がさけんでいる。そして20歳になってしまったあたしも一緒に叫ぼう。
大人になっても矛盾だらけなんだ!!!


余生短し、恋せよオヤジ。